地車(だんじり)祭りの歴史
こんにちは、logiです。
関西の各地では夏から秋にかけて地車(だんじり)祭りが執り行われています。
私も縁あって泉大津の濱八町だんじり祭りに毎年参加しています。
今回はだんじり祭りの歴史を振り返りながらご紹介したいと思います。
【地車とは】
地車とは、祭礼の山車(だし)のことで、関西では地車(じぐるま)のことをだんじりと呼んでいます。地車=だんじり となっています。
地車の型は 下だんじり と 上だんじり に分類されます。
だんじりの重心位置が下にある方が下だんじり、上にある方が上だんじりと思っている人がいますが、それは間違いです。
昭和の中頃までは、岸和田型のだんじりは(泉大津市と忠岡町の市町境界を流れる)大津川より南に多く見られたので、京都より遠いと言う意味で下だんじりとなり、従来型のだんじりを上だんじりと地車研究家の間で呼ばれるようになったようです。
写真AC:優海☆さん
岸和田だんじり祭り
だんじり祭りと言えば、現在は岸和田だんじり祭りが最も有名です。
テレビ放送やニュースにも大々的に取り上げられています。
その岸和田だんじりは下だんじりと呼ばれるだんじりです。
1703年(元禄16年)、当時の岸和田藩主岡部長泰が伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭が始まりとされています。
天明5年(1785年)、岸和田城下北町の油屋治兵衛という商人が、泉大津からだんじりを購入したという記録がありますが、そのだんじりは大きくて城門をくぐることが出来なかったため、改良され現在の岸和田型の地車が完成されたそうです。
そうして、岸和田のだんじりの特徴である高速で走行し、停止せずに角をいっきに回りきる「やりまわし」が昭和の時代から行われるようになりました。
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堺
堺における祭礼行列の歴史は古く約400年前とか。
今のだんじりの原型かどうかは分かってはいませんが、堺はだんじり発祥の地とする説もあるそうです。
当時は数十台の地車が存在したという記録もあるそうです。
明治28年、紀州街道で起こった地車同士の喧嘩が原因で殺傷事件になり、それが原因で警察はだんじりの曳行を禁止しました。
その事件以来、堺旧市内では布団太鼓のみが巡行を許可されるようになり。住吉界隈の地車の曳行も衰退していきました。
泉大津
泉大津だんじり祭りは、南海本線より浜側で主に行われる濱八町と
南海本線より山側で行なわれる十二町連合があります。
濱八町
だんじりの種類は上だんじりで、前方で停止している別のだんじりに後方から追突するかちあいが見どころです!綱先 綱中が細い路地に逃げ込み、最後に綱元が勢いよく前方のだんじりの後梃子に追突させます。このかちあいは堺の鳳や津久野、兵庫の宝塚などでもあったが現在は濱八町でしか見ることが出来ません。
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十二町連合
だんじりの種類は下だんじりで、こちらは岸和田だんじり祭りと同じやりまわしが見せ所となっています。
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地車囃子
地車囃子とは、練る・走る・止まる・曲がるといっただんじりの動きに合わせて統御する役割があります。
そのルーツは、豊臣秀吉 大坂城築城の際、巨岩などを運搬する時の掛け声などが、地車囃子のリズムとしてのルーツとなったと言う説が有力です。
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【まとめ】
日本には各地で色々なお祭りがありますが、今現在の形に至るまでの歴史やその時代の様々な事情により変化して来たようです。
現在の祭りの懸念としては少子高齢化問題が大きな課題となっています。
少年団・青年団の年齢層が少なくなり曳き手が減少しています。
そうなると将来、祭りを運営していくための人力と財源の確保が難しい状態が既に始まっています。
今、この数百年と受け継がれて来ただんじり祭りを次の世代にどうのように引き継いで行くかが自町・他町・ギャラリー問わず最大のテーマです。
海や山など自然は勿論ですが、先祖代々から伝わる風習や慣わし、お祭りごとなどを是非、次世代に残していきたいものですね。
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